トーコさんの秘密(2008年8月)|青の輪郭 #15
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この連載「青の輪郭」について詳しくは下記をご参照ください。
【これまでの連載】
#0|プロローグ
出発地点として借りたのは、東池袋駅徒歩1分の雑居ビル。
[高校編]
▼第1章 バイバイ、マイ・チャイルドフッド
#1|You Know You’re Right
高校1年の春、16歳。毎月のように変わっていく世界の見取り図。
#2|幻のツーベース
野球を愛する者だけの間で交換される感情と経験。
#3|図書館の森、リノリウムの木漏れ日
読書への目覚め、ある一冊との衝撃的な出会い。
▼第2章 スローカーブが描く憂鬱
#4|アルトサックスと坂口安吾
本気で何かに打ち込める残りの期間を数えながら。
#5|替え玉さまよ、永遠に!
練習後のラーメンがぼくらに教えてくれたこと。
#6|避難小屋としての読書
本の中のハイパーリンクを片っ端から踏みまくる。
#7|10月にマウンドでぼくは誰かに話しかけたかった
本と野球、この2つが自分の中で空中分解しそうな矢先に。
#8|青い炎
堕落せよ、堕落せよ──ひとりぼっちのトレーニングルームで。
▼第3章 きみの名前
#9|太宰治とゲームボーイ
予備校通いの始まりとともに訪れた、初めての感情。
#10|ワイルドカードの名は、東京
漠然と決めかけていた進路、この世界の永遠。
[大学編]
#11|青は、はじまりの色(2008年10月)
上京を経て時は移ろい、大学3年。世界と遊ぶ文芸誌『界遊』、はじまりの“編集会議”。
#12|夜明け前のゴロワーズ(2006年12月)
ある映画監督からの突然の電話。仲間と向かった渋谷での一夜の出来事。
#13|名前をつけてやる(2008年3月)
古見と2人、「文学に閉じこもらない」文芸誌にぴったりな名前を探して。
#14|編集会議は土曜日に(2008年5月)
創刊へと動き出す中で、初めて意識する「司会」というロール。
トーコさんの秘密(2008年8月)
出しっぱなしの敷き布団が、どっしりと湿度を含んでいる。気温が連日30度を越す真夏がやってきて、築40年以上の夕霧荘はサウナのような熱を朝からため込むようになっていた。くたびれて開け閉めする度にキシキシと嫌な音を立てるアルミサッシには、ヤギさんが取り付けていた窓型のクーラーがついている。マックスの18度に設定しても冷たい風はほとんど出てくることがなくって、送風機よりいくらかはましという程度だったから、ぼくは窓をめいいっぱい開けて、扇風機を強にした。
汗でべっとりと肌にくっついている野球部時代のアンダーシャツを脱ぎ捨てて、蛇口の水を含ませて固く絞ったタオルで上半身を拭うと、身体がため込んだ熱で水分がすぐに蒸気となって昇ってくる。夏の現場仕事はしんどい。しんどいけど、それでも真夏のインターバルトレーニングよりはよっぽどマシだ。目標タイムを切らないと連帯責任でチームメイトまで無限に“おかわり”させられるあの理不尽な地獄に比べたら、ちゃんと時間通りに終わりが来て、賃金が支払われる肉体労働には、シンプルな倫理がある。 冷蔵庫から格安スーパーで60円で買ったコーラを取り出して、その半分を一気に喉に流し込んでやる。ぱちぱちとはぜる琥珀色の天国のような飲み物が、見たこともない自分の細胞のひとつひとつに、しかし確かに注ぎ込まれていく。この液体でぼくはできてたんじゃないか、ってくらいに身体になじむと、それだけで生きている価値があると思える。
雑誌をつくりながら生活する上で、何よりも必要なのはお金だった。
3月までは毎月25日になれば、どう過ごしていても口座に13万円が振り込まれていた。家賃を振り込んでも6万残る。友人と比べても潤沢だったその仕送りをいいことに、本やCDを買い、映画を見に行き、煙草を吸って飲みに出かけていた。「バイトなんて時間の切り売りにはげむより、色んなものをインプットするのが大学生の本分でしょ」なんてうそぶいていた生活をつい数ヶ月前までしていたことが、すでに恥ずかしい。今目の前にあるのは、労働と生活、そして制作だ。
まずは労働。
ベースとなるのは、ヤギさんが店長をしている阿佐ヶ谷のマンガ喫茶〈アジール〉だ。ヤギさんが苦心して、独立系書店のような棚づくりを工夫していて、そのおかげで自分からは手を取らなかったであろう作家のマンガを仕事のあいまに読むことができたけれど、ここの売りは大手チェーン以下の格安料金設定だったから、彼の工夫があまり集客に繋がっていなくて、少し不憫だ。阿佐ヶ谷店と西荻窪店の合計2店からなる〈アジール〉は個人経営店で、阿佐ヶ谷店の運営はヤギさんに任されていたから、比較的自由にシフトを組んでもらえるのもよかった。
だけど、それだけでは雑誌づくりのための資金を貯めるには心許ない。
効率のいいバイトを探しているうちに、『ガテン』という肉体労働専門のアルバイト情報誌を見つけた。短期の現場もあって、安全靴の保証金3000円を支払うのに抵抗感があったけれど、日当10,000円が日払いでもらえるというのは大きい。最初に紹介された現場は阿佐ヶ谷駅を南北に走る中杉通りの道路工事だったから、徒歩で通えるというのもありがたかった。なんとなく、〈アジール〉でのバイト代は生活費にし、肉体労働で稼いだ分を雑誌作りに回すことにしようと思った。そう考えると頭の中には、『さようなら、ギャングたち』で見た肉体労働に励みながら小説を書いていたという、若いときの高橋源一郎の写真が浮かんで、くすぐったいような気持ちになるのだった。