名前をつけてやる(2008年3月)|青の輪郭 #13

古見と2人、「文学に閉じこもらない」文芸誌にぴったりな名前を探して。
武田俊 2023.01.21
サポートメンバー限定

  • この連載「青の輪郭」について詳しくは下記をご参照ください。

【これまでの連載】

#0|プロローグ
出発地点として借りたのは、東池袋駅徒歩1分の雑居ビル。

[高校編
▼第1章 バイバイ、マイ・チャイルドフッド
#1|You Know You’re Right
高校1年の春、16歳。毎月のように変わっていく世界の見取り図。

#2|幻のツーベース
野球を愛する者だけの間で交換される感情と経験。

#3|図書館の森、リノリウムの木漏れ日
読書への目覚め、ある一冊との衝撃的な出会い。

▼第2章 スローカーブが描く憂鬱
#4|アルトサックスと坂口安吾
本気で何かに打ち込める残りの期間を数えながら。

#5|替え玉さまよ、永遠に!
練習後のラーメンがぼくらに教えてくれたこと。

#6|避難小屋としての読書
本の中のハイパーリンクを片っ端から踏みまくる。

#7|10月にマウンドでぼくは誰かに話しかけたかった
本と野球、この2つが自分の中で空中分解しそうな矢先に。

#8|青い炎
堕落せよ、堕落せよ──ひとりぼっちのトレーニングルームで。

▼第3章 きみの名前
#9|太宰治とゲームボーイ
予備校通いの始まりとともに訪れた、初めての感情。

#10|ワイルドカードの名は、東京
漠然と決めかけていた進路、この世界の永遠。

[大学編
#11|青は、はじまりの色(2008年10月)
上京を経て時は移ろい、大学3年。世界と遊ぶ文芸誌『界遊』、はじまりの“編集会議”。

#12|夜明け前のゴロワーズ(2006年12月)
ある映画監督からの突然の電話。仲間と向かった渋谷での一夜の出来事。

***

名前をつけてやる(2008年3月)

 朝、なんとか寝床から這い出して、ガラガラと音を立てる窓を開ける。
 降り始めの雨によってしっとりとした重みを携えた大気が、ほわんと部屋の中に入り込む。四畳半風呂なしの夕霧荘は、底冷えするような寒さをなんとか越えて、春を迎えていた。それを冬眠明けの熊のような気持ちで、ありがたく受け止める。

 高円寺は商店街の町だ。
 引っ越してから最初の1週間、この町の地形を体に染み込ませようと思って、ひたすら歩くことにし、気がついた。路地を含めてできるだけ細かく歩き、自分にとって用のありそうな店を見つけては、脳内にラインマーカーでチェックしていくことにしたのだ。
 まずはなんといっても北口の純情商店街。直木賞を受賞したねじめ正一の作品にあやかり、以降この名前が公式に使われたそこを、ぼくはGOING STEADYの曲の歌詞で知っていた。南口には屋根のついたパル商店街と、そこを抜けた先、青梅街道とぶつかるまで続くルック商店街。古着屋が多い通りで、アジア雑貨のむげん堂で、よくチャンダンやナグチャンパなどスティックタイプのお香を買う。夕方になると夕霧荘の和室は、必要以上に4畳半フォーク的なもの悲しさに支配されることがわかってきて、そんな時にお香に火をつけエキゾチックな香りを立てれば、一時的にだがそれから逃れることができた。
 歩きやすくて楽しいのがあづま通り商店街。お気に入りは、十五時の犬という古本屋。狭い店内におびただしい量の書棚がまるで迷路の壁のように配置されていて、本を並べたというよりも、本の間にかろうじて人が通れるほどの導線を縫うように確保した、といったほうが正しい。その奥で、いわれてみれば確かに犬っぽい雰囲気のあるお兄さんが静かに座っていて、そのぜんたいをとても好ましく感じ、立ち寄るようになった。
 この町でぼくは生まれてはじめて、八百屋で野菜を買い、肉屋で肉を買った。
 駅前の高野青果は、スーパーで見る野菜よりもはるかに瑞々しく、そして安かったし、その路地裏の並びにある肉のいしだでメンチカツを買って歩きながら食べるのは楽しい。ジャンプには鶏もも肉が100グラム48円で売っていて、調理するとパサパサしてしまうことを除けば、こんなにありがたい食材はない。
 生まれ育った名古屋市東部では、近くにある巨大なアピタで日常的な買い物は済ませていたし、そもそも生活圏に商店街なんてものは存在しない。大須などに出かければ大規模な商店街があったけれど、そこはあくまで「観光」として出かけるところで、生活とはほど遠い。商店街はハレの場で、週末にそこを訪れた人たちはケバブや肉まんなどを片手に、ほがらかに食べ歩く場所だ。
 高円寺は違った。
 仕事帰りのサラリーマン、主婦、老人、金のなさそうな学生やバンドマン。様々な種類の人が出歩いていて、商店街には、彼らの生活そのものがあった。というよりも、家々の生活の気配がその内に止められず、町じゅうにあふれ出しているかのようだった。
 そこで吟味しながらキュウリやキャベツを選び、ショーケース越しに鶏肉をグラム指定して買うとき、生まれてはじめて自分の生活を自分で選ぶ設計しているような、なんともいえないよろこびがあふれた。それは体中を静かに、でも確かな手応えで駆け抜けるのだ。

 移り住んで2ヶ月が経ち、徐々に生活にも慣れ始めた頃、大学は春休みを迎え、たびたび古見が夕霧荘にやってくるようになった。

この記事はサポートメンバー限定です

続きは、3968文字あります。

下記からメールアドレスを入力し、サポートメンバー登録することで読むことができます

登録する

すでに登録された方はこちら