武田俊の読むラジオ|#52 電車の中で写真集を「読む」
なかなか子育てのあれこれで夜に出歩けないんですが、昨日は友人の主催するクリスマスパーティーに出かけました。テーブルごとに違う雰囲気のひとたちがいて、聞いてみればなんでも保育園からの友人と一緒に、地元の友達から仕事で知り合った仲間まで、まとめて呼んでいるとのこと。それがなんとも心地よくって、みんなでマリカーしたり、プレゼント交換(1000円以内、むずかしい!)を楽しんだのでした。
思えば季節行事って、こういうことのためにあるのだよなあ。
電車の中で写真集を「読む」
ということをはじめてしたんです。
もともとそういうつもりはありませんでした。
そうなったのは、佐内正史さんのあたらしい写真集『写真がいってかえってきた』をひとに見せたくて持っていったとき。公共交通機関で移動するとき、ぼくは最低2冊は本を持っていくのですが、この日は荷物が重かったし、この本の中に保坂和志さんのエッセイ「シロちゃんと見た風景」を読めばいいや、と思って、この1冊だけを持って家をでました。
誤算だったのはエッセイが思っていたより短くて、とてもいいものだけど、すぐに読み終わってしまった。困った。でも、iPhoneをひらきたくない。それで『写真がいってかえってきた』を頭から「読んで」みようと思ったんです。170mm×128mmのちいさな半径で、ひらきのいいコデックス装だから違和感なくひらける。それで眺めていく。その本の画面の奥には、車窓があって、そこにいままさに移動している過程の風景が動いていく。
風景というのはぼくにとっては、「やってくる」もののようです。
それが都市だとしても、光や湿度の具合によって瞬間ごとに異なる風景は人為的につくれるものではなく、なので自分が移動して足を運んだ先で出会ったものだとしても、「やってきた」ものだと感じる。中動態のようなかんじ。その「やってきた」ものたちが、ページの中と車窓の中とで流れていて、ページの中の風景は佐内さんがフィルムと印刷によって定着させたもものだから動かない。揺らぎのある車窓の風景と、仮置きされて固定された標本のようなページの中の風景。それを見比べたりしながら移動するということ。
これはなかなかにおもしろいものでした。まだうまく言語化しきれていないけど、これは言語にしないで、いつまでも舌の上で転がしていたいような感覚。手元にこぶりな写真集のあるひとは、一度試してみるものいいですよ。ふしぎで、あたらしくて、おもしろい、風景たちの感覚。