通過儀礼、老けるということ、祭りの準備

「老けないね」といわれ、恥ずかしいのはなぜだろう
武田俊 2024.05.27
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「武田くん、ぜんぜん見た目変わらないよねえ」と最近立て続けに2回いわれた。どちらも数年年上の先輩で、どちらも褒める意図でいってくれている。ひとりはアーティストで経営者。もうひとりは写真家だ。「〇〇さんこそ、全然老けないですよね!」なんて話していたのだけど、ちょうどこのところ年をとる、ということについて考えていたのだった。

今年、38歳(!)になった。
ふだんぼくが仕事をしたり遊んだりしている仲間は、フリーランスでクリエイティブに関する仕事をしているひとたち、ライター、小説家、アーティスト、ミュージシャン、写真家、そういうひとが多い。会社員でも、出版やメディア関係、エンタメやIT業界のひとたちがほとんど。それ以外には経営者たち。彼らは、何かしら自分のスキルや趣味を仕事に近づけたり、そのまま仕事にしたり、そういうひとたちといってよさそうだ。

そういう生活の中で、ふだん会わない業界で働く同世代の知り合いなどに会うと、「お!」と思うことがある。いいかたが適当でないかもしれないが、みんなちゃんと老けて、おじさんになっているのだ。そういう場ではよく「武田はぜんぜん老けないなあ」といわれたりする。

トイレに立ったタイミングで鏡を見てみる。
スキンケアもなにもしてなかった20代前半のころの、つるつるだった肌のキメはあらくなっているし、なんだかしわも増えている。当人比では老けてきているのだが、たしかに相対的に見てみると、かれらの方が老けている。これはなんなのだろう。

帰り道ぐるぐる考えて、ひとつの場所に行き当たる。そうだ、通過儀礼をぼく(ら)はこなしていないのだ。たとえば入社試験や、昇進のためのあれこれ、自分の意志とは別の形でしなければいけない謝罪、我慢して受け入れなければならないさまざまのこと。

現代の通過儀礼ってたぶんそういうもので、ぼく(ら)はそれをしないでいいように振る舞ってきたし、逃れてきたといっても過言ではないだろう。農耕牧畜ではなく、狩猟採集。そういう生き方を選んできたぼく(ら)の社会生活上での意志決定の多くは、実存的な側面から選ばれることが多そうでもある。

どっちがいいとかではないが、我慢してきた回数が違うような気がする。その差異が「老け」に現れるのだとしたら、「老け」とは成熟のことで、「老けていない」というのはいつまでも幼児性を保持した状態、ともいえるだろう。

「ぜんぜん老けないなあ」といわれる時、たしかに少しだけうれしくもあるが、どこか落ち着かず、恥ずかしさにも似た感情をいつも持たされるのは、この成熟度の定規のせいなのだろう。なんだか急に老けていないことが、足りていないことのように感じてきた。

どう打開できるかな。
と考えて歩みを進めていると、ある出来事を思い出した。

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