武田俊の読むラジオ|#47 古田店長のこと

いろいろ思い出すことの多い週でした
武田俊 2024.10.16
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3連休というのは、保育園に預けられる日が1日減るということであって、大変なこと。なのに、気管支炎にかかってしまい、さらなる追い打ちです。寝込みながらいろいろ思い出すことが多かったです。今日は1本エッセイと、いつもの空中日記です。

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古田店長のこと

地元の名古屋にかつてあった、ちくさ正文館書店の古田店長が亡くなったというニュースを受けた。業界ではとてもよく知られた人で、その独自の棚づくりは「古田棚」と呼ばれ、文脈で構成される書棚づくりのオールドスクールともいえるものだ。正文館が惜しまれながら閉店したのが昨年7月のことで、その翌年に古田さんも亡くなったということになる。個別のひとの死に慣用句を当てたくないから書かなかったけれど、どうしても店の跡を追うように亡くなった、と思えてしまうタイミングだ。


古田棚は、ぼくが人生ではじめて体験した文脈棚だった。それは異様な光景に見えた。高校生の時だった。正文館のある千種駅というのは自宅からはそう遠くないにしろ、生活圏外だったため特に立ち寄ることはなかったが、河合塾に通いはじめたころ、普段は名駅の校舎に通っていたところ、なにかの講習の折に千種校に出向いた際、帰りに寄ったのだ。

店内右側の人文書のエリアに足を踏み入れて、なにか異様な雰囲気を感じた。その正体がどこからやってくるのかを、棚に目をやった瞬間に理解できた。出版社順でもあいうえお順でもなく、判型もばらばらで、人文知にも通史としての文学史にも決して明るくなかった当時のぼくの目には、それがでたらめなものにすら見えた。

ところが本を読み重ねるにつれ、お店に通うにつれ、最初はでたらめに置かれていたように見えたそれが、変わってくる。「そうか。棚って1冊ずつじゃなく、面で見たりするものなんだな」とわかってくる。すると、本と本をつなぐ背骨のようなものの存在を、うっすらと感じられるようになってきた。

あいまいな輪郭だったそれが、次第に姿を見せてくる。これはそれまでに得たことのない、知的な楽しみのように感じた。いま思えばその「背骨」こそがコンテクストというもので、あの棚からぼくははじめて「編集」というもののおもしろさを、フィジカルで感じとることができたのかもしれない。それをどんなひとがどんな意図でつくったのか、まったく知らないままに。

大学進学のために上京してからは当然足を運ぶ機会はなくなっていたが、仲間たちと『界遊』という雑誌をつくりはじめたころ、正文館のことを久々に思い出した。あそこに置いてもらいたいな、でも素人のつくった本なんて置いてくれるんだろうか。ひとまず出かけてみようと思って夜行バスで帰省して、お店に向かった。

その日は雨だった。

古田店長はエプロン姿で出迎えてくれ、軒下に置かれていたスタンド式の灰皿をざりざりと音を立てて店内入り口に引き寄せ、「きみは煙草吸うの?」とぼくに問いかけながら、すでに一本目に火をつけていた。「ご一緒させていただきます」といって彼に続き、できたてのブルーの表紙の見本を手渡して、どんな思いでこれをつくったのかを熱弁する。

古田さんはうんうんとうなずきながら聞いてくれ、そのあと煙草数本ぶん、文学のこと、書店のことを話してくれた。ぼくは自分たちの吐き出す煙が、本ににおいをつけてしまわないかずっと気になっていたが、「今はそれよりも集中すべきイベントが起こっている!」と思い直して、会話の中に身を浸し直した。

その煙草数本分の時間は、本をつくったはいいものの、肝心の売り場である書店となんの接点も持っていなかったぼくを大いに励ましてくれるものだった。その日、古田さんは5冊『界遊』の創刊号を仕入れる約束をしてくれた。

帰りに絶対になにかを買って帰ろう、それが誠実さってものだと思った。じゃあなにを買って帰ったのか。肝心のタイトルがはっきりと思い出せない。たしか詩人・藤井貞和の著作だったと思う。その時に自分がほしいものの中で、ここにふさわしい、何なら古田さんが「おお、いいもの選ぶね」といってくれるようなものを考えてのことだった。いそいそとレジに持って行くと、古田さんはそこにはおらず、別の方がレジを打ってくれた。

そのことはおぼえている。
おぼえていた。
おぼえていた事実を、いま、書くことで思い出すことができた。



追記:Titleの辻山さんによる古田さんに関するエッセイを見つけたので貼っておきます。
「ちくさ正文館と古田一晴さん」

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  • 空中日記 #139|「気管支のクリアランスが落ちてますね」

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