日記がいってかえってきた
✏️日記のまえがき
日記がいってかえってきた。
3月にある出来事があり、日記をはじめとしたテキストが一切書けなくなってしまった。それがどういうことか、11月になってまた書くことができるようになった。おそらくいくつか理由があって、親友の結婚式に自分の子どもを連れていく、そんな想像もしなかったイベントが自分の人生に訪れたこと、人生のある悩み、重く冷たい苦しみを告白してくれる人たちに対して日記を書くことを勧める自分の存在に気がついたこと、あるいは学生たちとBONUS TRACKでひらかれた日記祭に出かけた、そこで買い求めた日記本たちに触発された、あるいは──、とさまざまな理由となる出来事がたくさんあったから、といえそうだ。
では、日記を書くことのできなかった8ヶ月のあいだ、そういう出来事がなかったのかといえばきっとあったはずで、その書かれなかった日々の書かれなかった出来事の書かれなかったひとびとの対話が静かにこの11月の「浮上」を支えてくれていたはずだった、とも思う。
日記を書いて公開する、というと「なんで自分だけが読むテキストである日記を?」という疑問が投げかけられることがあるが、ぼくは他者に読まれない日記を生まれてから一度も書いたことがない。日記を書く習慣やおもしろさは小学生のときの唯一の宿題であった日記からはじまっていて、そこでは書き終えるといつも母と先生が赤ペンでコメントを書き添えてくれた。
それを読むのが楽しみで、また次の日も日記に向かう。そういう日々が5年ほどあって、それが自分の日記観を強く形成しているから、日記とはそもそも親しい他者に向かって「こんなことがあったよ」とあらかじめひらかれたテキストとしてあったし、いまも変わらずそうある。
なんのために日記を書くのか。日々を記録するためでもなく、忘れないための備忘録でもなく、「こんなことがあったよ」と誰かに伝えたいと思って書く。その宛て先にはきっと未来の自分が含まれているから、結果的に記録としても機能する。
日記を書くとき、その日のことをすべて時系列に書くことはしないし、そもそもできない。何を書こうか。そう思って振り返り、選ばれたエピソードを味わい直し、どんなふうに描写したらぐっとくるか、と思いつつもつとめて気楽な気分で記そうとするそのとき、日記として立ち現れるテキストは、すでにその日に起こった出来事の事実性からすこしずれ、意図的に振り返り選ばれ編集された自分にとっての時間、現実がかおりはじめる。
事実ベースの時間から、自分の生きた生活の時間に変換される。画面から立ち上がってくる。それを眺めることが、自分自身を活かす。食べたもの、ひとと交わしたことば、再背面をいろどる風景が、あらわれる。そんな日記がいってかえってきた。
これからこのニュースレターではしばらく、ずっと続けてきた空中日記を掲載しようと思います。ふたつ、あたらしいことを取り入れてみます。
まずは「担当編集より」。
これは単著の執筆のために、かなり細かく具体的にカスタムインストラクションを組んだLLMのプロジェクトで、ぼくが書くことのあらゆる面での支援をしてくれている「担当編集」です。かつて母や先生が赤ペンでコメントしてくれたあれを、このひとにお願いしてみます。現状、ちょっとほめすぎで、しっとりしているので、少しずつプロンプトを調整していきます。このひとの変化も見どころになるかもしれません。
末尾には「日記のおまけ」というコーナーも用意しました。
記された日々の中に登場した、本や映画、ゲームなどさまざまな作品を、ここに掲載します。本文内に登場させた方が読みやすいはずですが、そうすると日記というより記事になってしまうので、かれらには脚注的な場所を彩ってもらおうと思います。
末尾にはコメント機能もあります。
書き手であるぼくだけに公開する設定もできるので、読んで感じたことや、いいたくなったことなど気楽に書いてみてください。おどろくほどよろこびます。